ガンになった時わかる健康保険の使えない危機!混合診療解禁を一医療難民をなくせ!kongoshinryo.net

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平成18年(行ウ)第124号 健康保険受給権請求事件
原 告 清郷 伸人
被 告 国



                 準備書面(1)

                              平成19年7月4日

東京地方裁判所民事第3部A係 御中



                          原 告 清郷 伸人




 原告は、本準備書面において、被告の7月4日付け準備書面(2)の内容への反論を行い、混合診療を禁じているとされる国の制度の法的根拠に疑問を呈し、その法解釈の非合理性、違憲性を主張する。

1.「第1 混合診療に保険給付が認められない法的根拠について」への反論
 国の準備書面(2)では、昭和59年の健康保険法改定において創設された特定療養費制度および平成18年に改定された法で定められた評価療養制度(これは選定療養制度とあわせて保険外併用療養費制度と呼ぶらしいが、以前の特定療養費制度と基本的に同じなので、ここでは以降これらを特定療養費制度と便宜的に呼ぶことにする)への反対解釈として混合診療は禁止されていると解釈でき、運用されていると述べている。
 まず私は、このような反対解釈は厳密な法理上の観点から可能なのか、不可能で許容されないのではないかという疑問を呈したい。次に仮にこのような反対解釈が可能で許容されるとしても、この場合の特定療養費制度の反対解釈としての混合診療禁止は法的な根拠を持っていないと反論したい。なぜなら「特定療養費制度の規定は保険診療と保険外診療の併用が可能であることを確認的に規定しているのみであって、それ以外の混合診療行為自体を禁止する趣旨は含まれていないと解釈されなければならない。」(甲第1号証)からである。
 さらに万一特定療養費制度への反対解釈としての混合診療禁止が可能とされた場合でもその適用、運用は今のままでは不可とされなければならない。なぜなら平成18年3月最高裁は旭川杉尾裁判の上告審判決で「国民の権利を制限するには法律の根拠を要するという原則を厳格に明文化した憲法第84条の趣旨は租税と類似した性質を持つ他の公課にも及ぶ」という判断を示し、それは健康保険も含まれると言及しているからである。平成元年の東京地裁の判決文にも「混合診療について法および療担規則には明文の規定はない」とあるとおり、明確な明文の規定もなく反対解釈などというあいまいで独善的な解釈によって、国民の重大な権利を制限、剥奪している特定療養費制度は行政の恣意的行為という他なく許されるものではない。
 次に、国は平成18年の抜本的とされる医療制度改革でなぜ混合診療禁止を明文規定しなかったのか私はつくづく疑問に思う。行政の最高機関の内閣では平成11年混合診療解禁という閣議決定があり、平成15年の小泉内閣では解禁の骨太方針の閣議決定、さらに翌16年には同首相の「年内に解禁の方向で結論を出せ」という指示にもかかわらず厚生労働省はダンマリを決め込み、結局解禁を禁じた以前のものと同工異曲の平成18年の改革でお茶を濁した。行政の最高機関への背任的行為を改め、長年法的根拠があいまいだと問題にされてきた課題を解決できる絶好の機会であったはずであり、国家公務員として怠慢というほかないが、あえて明文規定しなかったのであればその理由が問われる。


2.「第2 混合診療に保険給付が認められないことの合理性について」への反論

 (1)「医療の平等を保障する必要があること」について
 健康保険に加入し、療養費の給付を受けることは生命と財産にかかわる国民の基本的で重要な権利である。これを全面的に剥奪することはよほど合理的で正当な緊急必要性がなければ許されない。私にはそれは保険料支払い義務の放棄くらいしか想定できない。
 日本は共産国家ではなく国民の資産や収入の格差は法的にも倫理的にも容認されている。あらゆる生活の場面においてある程度の差があり、それに準じることは国民の暗黙の了解となっている。ゆりかごから墓場まで国がすべての国民に平等を保障しないことはこの国の原則といっていい。基本的人権を侵すほどの格差に対しては生活保護や公租公課免除などの公的救済などで基礎的な平等性がはかられる。
 健康保険は国の国民皆保険制度の中核をなしているが、それは医療の普遍的で基本的な部分は平等性を維持するということであって、本質的に医療のすべてを前述の国の原則から外れる例外的聖域と解釈することは間違っている。国のこの準備書面(2)では平等を保障するためといっているが言葉とは裏腹に現在の国民皆保険制度でもすべての医療が平等ではない。現在の健康保険制度とは健康保険の対象となる医療については国民が平等に受けられるというものであって、希望があり、能力のある患者が保険外の医療を受けることは現制度でも認められている。それは自由診療と呼ばれているが、患者と医師、病院との間で交わされる合法的な私契約である。それはどんなに高額であろうが安全性の確認されないものだろうが保険医療に関係なく健康保険受給にもなんら影響を受けない。しかるに同じ病院、一人の主治医のもとでこの二つを同時に受けた時だけすべての医療に健康保険受給権が瞬時に消滅することにどのような合理性、正当性があるのだろう。真に医療の平等性を担保するならば自由診療を受けた場合も同様な措置がとられるべきであろう。自由診療を受ける患者と混合診療を受ける患者に現にこのような不平等があることは憲法に保障された国民の平等権を犯す許しがたいものである。「他の保険加入者への悪影響などが立証されないのに、強制徴収手続きによって保険料を支払い済みの患者に対し、保険外の追加治療を行っただけで保険給付を拒むことは、他の給付を受ける加入者との間での何ら合理性のない一方的な差別の強制であって、憲法第14条の平等原則に反する。」(甲第1号証、第2号証)
 さらに混合診療を解禁して、認められた保険治療で治らない難病患者に保険外の治療の併用を認めることは、むしろ医療の平等の促進、格差の縮小に寄与するといえる。なぜなら混合診療を禁ずる今の制度のままでは保険外治療だけでなく保険治療分も全額自費で支払える本当の金持ちだけしか必要な保険外治療を受けることができず、家族を持つ中産階級は家計破綻を防ぐため難病を改善するかもしれない保険外治療はあきらめるほかないからである。このような普通の庶民の健康保険受給権を剥奪していったいどこが万国に優れた国民皆保険だろうか。国はみずからそれを破っているとしかいいようがない。
 仮に百歩譲って通常の急性期医療なら保険治療に限定することはある程度合理的と思われるが、慢性期医療では保険治療で治る見込みがなく、病態が悪化し、ついに亡くなるというケースは多々ある。このような場合、もう治療はないといわれた患者が保険外の、たとえば海外で有効で安全と認められた医療を受けたいと願うことは少しも異常ではない。このような慢性期の患者も望む医療を受けられる道をつけることこそ平等の保障である。
 
 (2)「患者の負担が不当に増大するおそれがあること」について
 ここに書かれたことはほとんど我田引水の憶測であって根拠を示して立証されたものではない。国民の健康保険受給権を剥奪する合理的な理由にはなりえない。医者と患者間の情報の非対称性はもちろんありうることだが、命のかかっている病気の勉強をしている慢性期の患者と情報開示と説明のいわゆるインフォームド・コンセントを心がける医者が現在その非対称性を縮めようとしていることも確かである。かつて決められた保険医療以外に治療の裁量権を持ちたいという医者はいないし、医療を何も知らない患者に治療の選択肢を与えると詐欺に引っかかるだけだと公の場で発言した医療界の幹部がいる。平成16年11月17日の中医協(中央社会保険医療協議会)の審議に参考人として発言した斎藤寿一社会保険中央総合病院長兼内科系学会社会保険連合会長である。この発言はハンセン氏病患者を人間扱いしなかったかつての「らい予防法」と同根の思想といえるが、厚生労働省のこの準備書面にも同じような考え方がうかがえる。
 現代はパソコン等優れた情報装置が広く行きわたっているにもかかわらず情報の非対称性を放置して、それを根拠に患者が望む治療の選択肢を奪うなど国民の生命と健康をつかさどる国の機関として役割放棄も甚だしい。この準備書面で想定されている悪徳医療機関を監視したり、取り締まることこそ本来の役割であって、それは的を射た法整備とその厳格な管理運用で十分可能である。にもかかわらず「保険治療の効果がないためやむなく保険外治療を求める患者の選択肢を奪うことで悪徳行為を防止するなど倒錯の極みである。」(甲第2号証)
 平成18年の厚生労働省の調査報告によると、がん患者の年平均医療費は保険治療の自己負担分が70万円、代替療法や民間療法等のいわゆる自由診療やアガリクス等のサプリメントに支出する隠れ負担が59万円となっている。保険外治療にこれだけのニーズがあり、それへの相当高い負担がすでに発生している。厚生労働省の混合診療を解禁すると患者負担が不当に増大するという理屈はまやかしといわざるをえない。これらの隠れ負担は混合診療が解禁されて保険医である主治医とともに保険治療と組み合わせた一連の治療が実施されていたら相当程度改善すると考えられるからである。患者に必要な保険外治療を行っても根幹の保険治療に保険給付の道を残すことは患者の生活家計にとって不可欠の条件である。この道が残ってさえいれば患者はみずから選んだ生命を託す保険外治療に新たな負担が生じても納得できるのである。さらにいえば強制的に徴収された保険料で給付される健康保険を不当な理由で受けられないことは憲法で保障された財産権の侵害にもあたる。
 準備書面(2)は混合診療で患者負担が増えることについて、かつての差額ベッド料を例示して、混合診療を解禁するとこのような保険外負担が増大し、医療機関は一連の医療サービスをすべて自由診療とする可能性が高いといっているが、きわめて乱雑な推論である。こういう推論はどこから導かれるのか証明してもらいたいものである。差額ベッド料はかつてのように患者に無断で課されることはないが、病院から提案されて患者が断ることは今でも難しい現状がある。患者の不当な負担増を防ぐには特定療養費のような中途半端な規制ではだめである。それはむしろ差額ベッドなどの負担増にお墨付きを与えるに等しい。患者の不当な負担増を防いだり、医療機関の悪徳行為をなくすには効果的な罰則を伴う立法措置によるのが正しい道である。
 また一方で現在保険外徴収のお墨付きを与えられている特定療養費には、差額ベッドのような選定療養のほかに保険治療と併用できる高度先進医療などの評価療養があるが、一種の混合診療であるそれらが医療機関の利益のために乱用されているかを考えると決してそんなことはない。自由診療に誘導する話など聞いたことがない。私の患者としての見聞でもほとんどが保険治療でおさまっている。ただがんなど難病の場合は病気が改善する可能性があるなら日本で承認されていなくても海外の良い薬を使うことに躊躇しないと考える保険医は多いと思うが、病院のためでなく患者のために行う治療で限定的とする医師がほとんどと考えられる。
 さらに改定された評価療養では、病院が国に申請すれば保険医療と併用できる高度先進医療の道が大きく開けたことになっている。国の計画では、患者だけでなく病院の利益のためにもそれを大幅に活用するはずだが、1年以上たった今でも申請はほんのわずかで遅々として進まない。これをみても混合診療解禁で患者負担が不当に増大するという病院悪者論には疑問を呈せざるをえない。

 (3)「医療の安全性・有効性を確保する必要があること」について
 この国の準備書面(2)で述べられているように保険医療は安全性・有効性が確認されたものでなければならないことは理解できる。一方、混合診療や自由診療となる医療にはその確認の不十分なものも含まれることも確かである。しかしそもそも医療における安全性と有効性は両立概念でなくむしろ対立概念であること、さらに生活歴や病歴に大いに個人差がある慢性期医療の臨床の第一線において、安全性や有効性に確定的で普遍的な一線が画せないことは臨床医なら誰でも知っている。したがって安全性と有効性が厳密に立証されなければならない保険医療とはきわめて限定されたものになるはずである。そして保険医療と認められたからにはまれに単発的な医療事故はあっても広範囲の医療事故が多発することはありえないはずである。しかしエイズやC型肝炎事故を起こした血液製剤やフィブリノーゲン、大きな薬害となったサリドマイドやキノホルムやソリブジンなどは保険承認薬であり、訴訟対象となっているものも含めて医療事故、医療過誤のほとんどは保険医療である。一方で厚生労働省が安全性・有効性に疑問を突きつけている混合診療、自由診療での医療事故はあまり聞かない。また病院が特別徴収を認められている特定療養費の対象医療でも聞いたことはない。すなわち現制度で医療の安全性を確保することは実際は困難なのであるが、国の机上の制度設計では正しい有効な方法と考えられているのであろう。しかし実はその設計には大きな落とし穴がある。
 保険医療の狭い世界ではこの制度の運用上の不備による事故はあっても、安全性はこの設計で完結しているとされるかもしれないが、慢性期医療にかかっている国民は病気を改善するためには保険治療の効果が期待できないといわれれば自由診療に進むことは十分考えられる。そして自由診療には国はその安全性については野放しである。国民にとっては保険医療も自由診療も一体の医療であり、厚生労働省が国民の生命と健康を預かっているならその両方に責任があるべきである。この準備書面(2)で国は、現制度が安全性の確認されていない治療は保険治療を含む一連の医療すべてを自由診療にすることで混合診療の安易な実施を抑止する効果があり、それで医療の安全性が確保できるとしているが、これは本当に正しい、効果的な方法だろうか。難病患者の私にはそれは逆で、倒錯したものとしか写らない。
保険給付に影響しない自由診療は安全性も有効性もさらに高額な料金もまったく問われず野放しである。保険外治療しか望みのなくなった患者の混合診療による治療併用の選択権を奪うことは憲法第25条で保障された国民の生存権を侵害していると考えられるが、自由診療においても患者の権利は放置されているといえる。保険外医療の併用を認めない懲罰的な制度、併用すれば患者を無政府状態に追い込むという脅しによって安全性を確保するという現制度は、国の思惑とは逆に患者をその自由診療へと追いやってしまう。すなわち今の制度は患者にとって危険で無慈悲なものなのである。それくらいなら保険外治療との併用を可能にして保険医の指導と管理のもとで患者の希望する医療を受けられるようにする方が、安全性を確保する道としてははるかに優れているし、正しい。「患者の安全を守るためと称して、まさに患者の安全を守り、生命を救うために、医学的根拠が明白で十分な技術を持つ医療機関が、患者の切迫した要望に基づき治療を行おうとすることを一切禁じるべきだ、という主張は傲慢そのものである。安全で効果的な治療も一切合切含めて、患者の選択を一律に禁止することによって患者の安全性が守られるなどとする主張は論理破綻しており、パターナリズムを越えて有害無益である。」(甲第2号証)
この章の最後に私の経験から申し上げたい。慢性期医療にある難病患者にとっては多少のリスクはあっても効果の期待できる治療(保険治療と認められない)を受けたいのは当然の希望であり、その意志が異常であるはずがない。治療効果があるとは医学的に20%以上の有効データの立証を要するらしいが、座して死を待つ患者は1%でも可能性があればそれに賭けたい。難病治療とはある部分清水寺の舞台から飛び降りる要素を持つことは臨床の第一線では常識である。治験などその最たるものである。だからこそ野放しの自由診療ではなく保険医と患者が十分な情報共有と話し合いのもとで選択する混合診療の解禁が切望されているのである。医者性悪説と患者愚者説を一方的に採って、難病患者の意志と希望をつぶすことは絶対に正当化されない。
(4)私の受けたLAK(活性化自己リンパ球療法)について
 国はこの準備書面(2)で、私の受けていた活性化自己リンパ球療法は平成18年の法制度改定で認められなくなったが、それまでは少数の病院で特定療養費対象の高度先進治療として併用が認められていたと述べている。そして間接的に他の病院で併用治療が受けられたのだから私の請求は認められるべきでないとしている。これは難病患者の実態と人権を無視した暴論であり、現在はどの病院でも併用ができないのであるから請求は可能である。
 がん患者の私は手術まで受けた神奈川県立がんセンターというこれ以上ない専門病院を変えるいわれはないし、予後の順調を保ってくれている主治医を変えることなど希望しない。それよりは私のがんセンターががんの高度先進治療を行える特定療養費の対象医療機関となっていなかったことの方が驚きであり、憤りを覚える。平成18年に特定療養費対象から除外された活性化自己リンパ球療法だが、手術から半年後の転移で治癒は難しいといわれてから5年間、それとの併用治療で結果的に生命を保ち、通常の生活を送れたのである。しかも自分のリンパ球を使う免疫療法だから副作用のない安全なものである。私のようながん患者にとってひとつの専門病院における一連の治療行為すべてが重要で、それらの経過観察は欠かせないものである。しかも私の場合、活性化自己リンパ球療法は費用負担を求められなかった。他の病院へ行くことはそれらすべてを反古にすることである。これらから私は病院を変えて活性化自己リンパ球療法を続ける道を命懸けで断念したのである。

 私の場合あてはまらないが、同じような患者で活性化自己リンパ球療法を特定療養費で受けていた人も多いはずである。それが安全性に問題があって事故が起こったわけでもないのに、専門家の間でも不確実といわれる有効性の判断のみで今回の改定で特定療養費から除外される理不尽は患者でなければわからぬ。明らかに安全性に重大な問題があれば保険治療だろうと特定療養費だろうと自由診療だろうと使えるわけがないのであって、医療として禁ずることが筋である。しかしそのような医療よりは有効性や安全性に明確に一線を画せない医療は多く、患者や病気によって微妙に動くのが臨床の常識である。安全性はともかく有効性がそのようなものである以上、不確定な基準で患者の切実な要望を無視して併用可能の特定療養費から活性化自己リンパ球療法を除外したことは許されない。厚生労働省が今回の改定は評価療養の対象を広げることで保険外治療の併用という患者の希望に沿っていると主張しているが、それが虚偽であることはこれでもって明らかである。そもそも日進月歩で進んでいる幅広い医療技術や薬剤に対し、閉ざされた審議会でいちいち保険医療との併用を認めるかを議論するなど不透明であり、医療現場の要望からはるかに遅れている。そうではなく患者が切望する治療を受けても保険治療部分には保険給付を行うことが国民皆保険の本道であり、国が強制的に料金を徴収して実施する保険制度の義務である。