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   裁判ドキュメント 高裁準備書面8 2008年10月
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平成19年(行コ)第405号 健康保険受給権請求控訴事件
控 訴 人  国
被控訴人   清郷伸人

           


陳 述 書

                 平成20年10月6日


東京高等裁判所第7民事部 御中

                           被控訴人
                              清 郷 伸 人












第1編 控訴人第1準備書面への反論
第1 控訴人第1準備書面「第1 はじめに」について
1 控訴人第1準備書面第1の1(2頁)について
控訴人は、控訴人第1準備書面で、「健保法と療担規則には混合診療について定めた明文の規定は存在しないが、だからといって混合診療を認めているという解釈を導くのは、短絡的である。」(2頁)と主張するが、被控訴人は、現行制度が混合診療を認めていると短絡的に解釈しているのではない。明文の規定がない以上、混合診療が禁じられているわけではないと解釈するほかないのである。
被保険者は、強制徴収された保険料の対価として保険給付を受ける権利を有するのであるから、混合診療を認めないというためには、明確な禁止規定が必要である。禁止規定がないのに、混合診療を受けたからといって、患者の保険受給権を一切奪う行政の行為は法律に基づかない違法行為であり、憲法14条、25条、29条を侵し、憲法84条にも違反する違憲の行為であって許されない。法律の状態を客観的に観察すれば、健保法は必然的にそのように解釈するほかないと考える。

2 控訴人第1準備書面第1の2(2頁)について
ここの前半で述べられていることは、医療の安全性、有効性である
が、何よりもそれは保険外医療であっても確保されなければならない重要なものであるから、薬事法や医療法、医師法で担保されることになっている。健康保険法は医療の安全性、有効性を第一義的に確保する法律ではない。健保法は保険収載にあたって安全性や有効性を比較考慮はするが、本質的には国民が医療を公平に安価に受けられるよう定めた経済的支援法である。経済的支援であれば当然財政的制約を受けるわけで、その医療は保険診療という枠に制限されることになる。制限されるならば健保法の本来の役割がすべての医療の安全性や有効性を担保するというものにならないのは自明の理である。控訴人は健保法の役割の本質をスリ替えている。
さらに言及すれば、健保法が本質的には経済的支援法であるからこそ、保険承認の医薬や医療に医療事故や薬害が絶えないし、逆に健保法の規制を受けない自由診療でも薬事法、医療法、医師法の規制があるからこそ日本の医療全体は基本的に安全性や有効性が保たれているといえるのである。重大な事故や被害は保険診療によるものの他は医療まがいのものやサプリメントに多いのは報道のとおりである。このように健保法で野放しの自由診療でも薬事法、医療法、医師法で安全性や有効性は規制されているし、逆に保険医療はすべて安全で有効であるというのは現状では信仰にすぎない。

3 控訴人第1準備書面第1の3(3頁)について
ここで控訴人は、特定療養費制度(以降、現行法の保険外併用療養費制度もその内容は特定療養費制度をほとんど引き継いでいると控訴人も認めているので、特定療養費制度で表す)の創設の趣旨という争点を提起しているが、控訴人は、国民の生存権に関わる医療の選択権および強制徴収された保険料の対価としての保険受給権という基本的人権の問題を、立法の明文規定がないと承知しながら行政の趣旨解釈で片付けようとしている。そしてその名目に使われているのが政策的判断という官僚に都合の良い、あいまいな常套句であり、平成元年の東京地裁判決である。この平成元年の東京地裁審理において、被告の国は昭和32年制定の療担規則(とくに18条、19条)によって混合診療は既に禁止されていたと主張したが、原告から、歯科の混合診療による差額徴収がその32年から保険局長通知で廃止になる51年まで行政指導で認めていたことの矛盾を衝かれた。しかし裁判所は過去の矛盾には目をつぶり、59年改正健保法の特定療養費制度が一連の医療行為を単位としてとらえて混合診療禁止の趣旨を持つという反対解釈論を展開して被告勝訴の判断を示した。しかし平成19年東京地裁は判決文にあるとおりこの判断を否定したのである。

第2 控訴人第1準備書面第2(4頁:LAK療法の位置づけ)について
1 控訴人第1準備書面「第2の1:現行制度におけるLAK療法の位置づけ」(4頁)について
控訴人は、「こうした制度趣旨にかんがみれば、法及び療担規則が……法の趣旨(控訴理由書9頁)が貫徹されなくなるからであると解される。」(控訴人第1準備書面7頁)と述べている。大正11年公布時の健康保険法は安全性・有効性の担保よりまず医療を国民に普及させる支援法の役割を担った。また昭和32年制定の療担規則は上位規範の健保法の趣旨からも逸脱する18条、19条のような規定を作った(少なくとも昭和59年の特定療養費制度が創設されるまでは健保法には特殊療法すなわち保険外診療を禁止するような趣旨はない)が、その後も差額徴収という混合診療はほとんど野放しであった。いや野放しというより控訴人が控訴人第1準備書面の証拠として提出した局長通知(乙第29、32~35号証)からも明らかなように、保険局長通知という行政指導によって差額徴収という混合診療は公認されていたのである。昭和2年健保法が施行されて以来、療養の給付は現物給付という原則を守ってきたにもかかわらず行政が自らこれを破ったのである。その結果、乙30号証の新聞記事にあるように差額徴収は大きな社会問題となった。しかしその問題は専ら患者の不当に過大な医療費負担という経済的問題であって、医療の安全性・有効性の問題ではなかった。差額徴収される保険外の医療も薬事法、医師法等の規制により基本的な安全性や有効性はある程度確保されていたのであり、医療事故や薬害は保険、非保険に関係なく起きた。このように健保法は常に安全性・有効性の担保は付随的役割であり、本質的には医療を国民が安価に公平に受けられるようにする経済的支援法である。
また7頁のこの箇所には「法及び療担規則が…保険医による実施を一律禁止するのは」という記述があるが、間違いである。法には禁止とはどこにも書かれていない。特定療養費制度の条文を客観的に読めば、特定の療養の消極的併用容認であって、それ以外の療養の併用を
禁止するほどの強制力はうかがえない。法のこのような状態における反対解釈は、国民の重大な権利を剥奪する根拠としては強引で恣意的に過ぎ、成り立たない。「特定療養費の規定は保険診療と保険外診療の併用が可能であることを確認規定しているのであって、それ以外の混合診療行為自体を禁止する趣旨までは含まれていないと解釈されなければならない。」(甲第2号証8頁)

2 控訴人第1準備書面第2の2(8頁:旧制度におけるLAK療法の位置づけ)について
 控訴人は、LAK療法は平成18年3月まで高度先進医療として認められていたが、高度先進医療専門家会議で有効性が疑われ、認定から外されたと述べている。(控訴人第1準備書面9~10頁)被控訴人はこの経過について詳しい説明を求めたが、控訴人は会議が非公開だとして、これを拒んでいる。しかし国家の安全に関わることでもなく、国民の税金で行われた、国民に最も身近な医療の議論を公開しないのは不合理である。厚労省は医療、年金等社会保障に関わる行政の不祥事が多く、現在、公式に厚生労働行政の見直しが進められているが、その中でも国民への情報公開は最も強く求められている。
川渕東京医科歯科大学教授も論文(川渕孝一「保険給付と保険外負担の現状と展望に関する研究報告書」日本医師会総合政策研究機構報告書第15号2000年4月・甲11号証)で「保険導入の可否を判断する根拠が一般にまったく知らされることがないのは問題である。中医協の議事録は公開されることになったが、そのたたき台をつくる専門家会議の協議が非公開なのは本末転倒の感を受ける。」と述べている。(20頁)
いずれにしろ特定療養認定を委任された高度先進医療専門家会議がたとえLAK療法を認めたり、認めなかったり揺れ動こうと、被控訴人は、主治医から提案されたLAK療法とインターフェロン治療によって、危険すぎて手術できないという腎臓がんの頭骨と頚骨への転移にもかかわらず、7年後の現在もがんは確認されるものの日常生活を送れるという寛解状態を保っていることは事実なのである。このような状態に置かれている患者にとって、混合診療を禁止する医療制度によってLAK治療ができなくなるということは、絶望に追い込まれることであり、死へと駆り立てられるに等しい。なぜ誰に迷惑をかけているわけでもないのに、切望する必要な医療の道を絶たれなければならないのか、まったく理解できない。死に直面するような難病、重病患者が、このように不合理で残酷な仕打ちを受けることは、あまりにも理不尽であり、無慈悲だと思わざるを得ない。このような患者の最期の希望の光をも吹き消すこの国のこの医療制度は、どのような合理的で重大な理由に基づいているのだろう。誰のための医療制度なのか。後がない被控訴人はこのような疑問を糾明すべく、自分の選んだ治療を受ける自由と権利そして保険診療に対する保険受給権を求めて訴えを起こしたのである。
また控訴人第1準備書面10頁から11頁の「なお、高度先進医療として実施が承認された場合に支給される……技術料ということになる。」の記述は、控訴人が医療の不可分一体性のため混合診療において医療費の算定ができないといっていることに対して、自ら解答を示したと解される。

第3 控訴人第1準備書面「第3 特定療養費制度創設の経緯及び趣旨」
(11頁)について
1 「1 昭和59年改正前の健康保険法及び療担規則の規定」(11頁) および「2 歯科材料に関する差額徴収制度の沿革と特定療養費制度との関係」(12頁)について
控訴人は控訴人第1準備書面で、「保険医は、昭和59年改正前の健康保険法の定める「療養の給付」以外については、基本的に特殊療法等に該当するとして、その実施は許されていなかった。そして、特殊療法等を行った混合診療の場合には、それに要した費用は、全額自己負担とされていた。」(11頁)と述べている。しかしこれは事実と異なる。官僚の作った療担規則では特殊療法などと貶めているが、それは保険外の自由診療のことであり、当時は保険診療と並んで医療の大きな部分を占め、患者に親しい市民権を得ていた。しかも規則というのは法規定ではないため歯科医師をはじめ誰も自由診療禁止など守ろうとはしていなかった。そして自由診療を併用しても保険は利かせて差額部分を徴収しており、控訴人のいう混合診療だから医療費は患者の全額自己負担とするなど考慮の他だった。それどころか被控訴人が本陳述書の5頁でも述べたとおり差額徴収という混合診療は歯科をはじめとして局長通知によって行政指導され、公認されていたのであり、療担規則(18条、19条にはまだ但し書きはついていなかった)は有名無実化されていたのである。
ある国立病院の医師は、健保法は大正11年の立法時から混合診療が当たり前で、次第に保険診療を広げていったものであるといっている。(清郷『違憲の医療制度』ごま書房25~26頁)そして昭和32年の療担規則によって保険外診療は禁止という建前を取ったが、差額徴収という形でさまざまな自由診療の併用は続けられた。それは36年の法改正で国民皆保険となったときも基本的な構造は変わらなかった。
川渕東京医科歯科大学教授の前掲論文(甲11号証7~13頁、23~24頁)によると、昭和30年代制限診療への不満から医師は患者にさまざまな名目の差額を請求し、徴収していた。当時の厚生省「七人委員会」報告では医師の技術料、歯科の金合金、薬剤・治療方法の差額、看護、給食、寝具などの差額徴収が認められていたし、厚生省の社会保障制度審議会では「開業医には自由診療の建前を取らせる」とまでいっている。これらの差額徴収は今でいう混合診療に他ならないが、法制度化されず、行政指導に基づいたり、無原則に慣習化して続いていた。そして差額ベッドや歯科での差額徴収が膨れ上がり、社会問題化した昭和50年代になって、特定療養費という制度を創設し、差額徴収(混合診療)を法制度の中に組み入れていったのである。したがって特定療養費制度は、本質的には保険による現物給付と差額徴収の矛盾を無理矢理解決するための例外規定だったが、高度先進医療という技術にまで差額徴収(混合診療)を拡大してしまった。この経緯を見ると、制度が立法時から混合診療禁止を明文規定しなかった訳がわかる。その後、時代に合わせて高度先進医療という混合診療を順次拡大していく考えだからである。
2 控訴人第1準備書面「第3 3 特殊療法等と特定療養費制度との関係」(14頁)について
特定療養費制度の創設の最大の動機は、医療機関が乱発する差額徴収による患者負担の不当な増大に対し、差額徴収(混合診療)を法制度に取り入れることで原則を持たせ、規定によって固定化することであった。その一環として一定の先進医療も特定療養費に組み入れたが、その他の先進医療を積極的に一律禁止することは行われなかった。なぜなら特定療養費制度が創設された当時、混合診療の是非をめぐる議論が激しく行われており、混合診療禁止(差額徴収制度の廃止)は結局、法に明記されず局長通達によって行われたからである。そして局長通達だった禁止を法に明記しなかったことは、立法者は混合診療を存続させる意図があったことを示している。
混合診療存続には別の意味もあった。昭和59年吉村氏を継いだ幸田保険局長が「特定療養費は有効性、安全性は問題ないが、普及性の少ない高度先進医療は差額徴収(混合診療)にして経過を見る過渡的な位置づけ」と発言している(甲11号証14~15頁)ように、混合診療によって保険収載に適した医療か否かを試験的に観察できるからである。またいきなり保険に収載しないことは保険財政を抑制する意義もあるからである。このように混合診療禁止を明記せずに特定療養費制度を創設する意味はあったのである。
また控訴人は、「いわば玉石混淆の様々な特殊療法等のうちから、安全性及び有効性が確認できる特殊療法等を限定的に抽出し」(控訴人第1準備書面15頁)と述べているが、特定の療養を定めた経緯がこれで読める。「限定的に抽出する」決定はきわめて不透明、不公正、おざなりといわざるを得ない。原審が疑問を持つのも当然である。保険医療と特殊医療(自由診療)の組み合わせを全体的、網羅的、公平に検証してはいないことがうかがえる。実際それは不可能であろう。だから特定療養以外の組み合わせを禁止すると法律に明文規定しなかったのである。特定療養以外の組み合わせ、すなわち混合診療を禁止する趣旨なら、当然、制度の起草者は法に明記したはずである。
換言すれば制度設計当時は保険診療と自由診療しかなかった。そして制度創設にあたってあらゆる保険診療と自由診療のすべての組み合わせの安全性、有効性を検証して「大臣の定めるもの」が決められたのではなかった。だから原判決は当時の保険診療・自由診療の組み合わせを全体的、網羅的に検証していないことも挙げて特定療養費の反対解釈による混合診療の禁止論を退けたのである。
次に控訴人は控訴人第1準備書面で「近年の医学技術のめざましい進歩発展に伴う新しい医療技術の出現や患者ニーズの多様化等は、保険診療と保険外診療との調整の必要をもたらした。高度先進医療をすべて保険医療に取り込むのは財源面の限界もあるし、特定の患者しか利用できない医療を保険給付に入れるのは公平性からも問題がある。…このような観点から特定療養費制度は検討されたものである。」という乙第37号証を引用し、これは特殊療法等の混合診療の全面禁止と全面解禁のそれぞれの長所、短所を考慮してこれらの調和を図ったと述べている。(14~15頁)
調和とは意味不明の自画自賛だが、特定療養費制度は、公認の差額徴収への非難と高まる患者の医療ニーズから編み出された苦肉の健保法例外規定である。調和の実体は、法改定後の今でも先進医療の申請には高いハードルを設け、官僚の裁量余地を大きく残して、評価療養の認定を小出しにすることで、患者の要望に応えているとすることにある。
しかし今はこの昭和59年当時より格段に医療技術の進歩と患者ニーズの多様化は広がっている。最近はメタボに表されるように生活習慣病や慢性期医療が医療費の大半を占めるようになった。
健保法立法時は混合診療を前提に保険収載医療を少しずつ増やしていこうと考え、国民皆保険を確立した昭和36年当時は感染症対策等急性期医療が中心で、保険機能を十分に発揮して国民福祉に貢献した。とくにその当時、ペニシリンなど抗生物質の保険収載という大きな変化があったが、それらの抗生物質は、それまでは自費診療として保険診療と併用されていたのである。
そして昭和59年の特定療養費制度創設であるが、現代はそれももはや時代遅れである。多くの少数の難病や圧倒的多数のがんを含む慢性期医療時代の患者ニーズとこれに応える医療技術には、保険収載医療を広げればいいという発想は財政面からも不適切であり、いかなる病気にも保険医療と評価療養しか認めないという制度は時代に合わない。このため制度と患者ニーズ・医療技術の狭間で苦しむ医療現場では、さまざまな工夫や偽計を用いて混合診療が潜行して行われていることは医師の間では常識であり、隠れて行われていること自体を危惧する医師も多い。
川渕氏の前掲の論文でも混合診療は日常的に行われているとして、東京女子医大のケースを典型例として挙げている。(甲11号証32頁)また国立病院の病棟婦長は「点数表どおりの診療をするのは経験の浅い医師だけで、研究熱心な医師ほど新しい手技・材料をどんどん採り入れている。混合診療がなければ医療は成り立たない。」とまで言い切っている。(同62頁)さらに「歯科診療は現在も混合診療が部分的に行われている。たとえば1976年7月の保険局管理官通知によって、基礎的部分を保険診療した後、修復・補綴治療を保険外治療に引き継ぐこと(混合診療)を認めている。混合診療は「特定療養費として厚生大臣が定めたものだけが認められる」とされているにもかかわらず、管理官通知1枚で作られた例外が23年後の今でも有効だとすれば、ことさらに混合診療を排斥する理由などどこにもないという結論に落ち着く」(同32頁)と書いている。また公然と行われている歯科医療のみならず現代病といわれるストレス性のうつ病等精神障害では精神科医のもとで保険診療を受け、同時にカウンセラーによる自費の心理療法を受けることは日常広く行われている。
混合診療が日常化する背景として、患者のニーズがあるのはもちろんだが、そもそも医師にも患者にもその禁止規定としての保険受給権剥奪が、社会の常識とあまりにもかけ離れているからだと川渕氏は例を挙げて述べている。(同32頁)すなわち現行の保険制度を目的地までの交通手段と考えた場合、出発駅から目的地の駅までの新幹線切符を保険給付とし、駅から目的地までは徒歩で行くこととなる。それを徒歩でなくバスやタクシー(混合診療)を使ったら出発駅からの新幹線代も給付されなくなり、全額自己負担になるというのは説得力に欠けると述べている。
控訴人は保険外診療を鬼っ子のように医療の枠から追い出そうとしているが、医療現場では難病や重篤時とか緊急時等に有用な医療として用いられることも多い。(甲11号証第3章「医療現場における保険外負担の実態」)近藤恵嗣弁護士も「保険外診療で患者に別個に費用を負担させることは現物給付制度においても可能である。現物給付制度のもとでは保険外診療は認められないとする考えは誤りである。」という見解を示している。(「特定療養費制度の概要と問題点(中)」『社会保険旬報』No1512 1985.8.1 36頁)
 そもそも特定療養費制度を創設し、そこにそれまでになかった先進医療というものを組み込んだことの意味を考えると、次のような構図が浮かび上がってくる。昭和59年制度創設までの差額徴収は室料や歯科材料といった医療の周辺部分を対象としていたが、特定療養費は高度先進医療という医療本体の根幹部分にまで対象を踏み込んでしまった。このような技術料にまで対象を広げたことで、特定療養費は適用の拡大に基本的に歯止めがかからなくなったといえる。(甲11号証24頁)
予算を配分する元大蔵省主計局厚生第三係の中川真主査は平成8年こういっている。「国民の医療へのニーズが変わってきている等の要請をうまく受け止めるには、『特定療養費の活用イコール混合診療の原則禁止の見直し』にチャレンジしていかなければならない。初診料や看護水準の高いものの特定療養費化などである。」そして初診料の自由化は平成8年実際に特定療養費化された。このように特定療養費制度が国民のニーズを吸収していくという側面を持つのなら、医療の本体部分の認定が拡がるのは避けられないのである。(甲11号証22頁)
川渕氏は章の最後にこう記した。「保険給付の範囲に一定の限界があることは保険財政上やむをえないが、医学の進歩は日進月歩であり、保険給付の範囲に入らない新しい技術は当然増えてくる。こうした状況で、保険給付の範囲を少しでも超える診療を受けた場合、その医療費を全額自己負担にさせるのは、健康保険制度がその役割を自ら放棄することにならないだろうか。もちろん、保険給付の範囲を超える治療法といっても、いわゆる民間療法など主観的な療法のことではなく、高度先進医療や治験薬などに端的な、ある程度普及性が確認されれば順次保険適用されるような新しい医療技術に限定すべきことはいうまでもない。今後確実に増えていくこのような新しい技術の治療法の恩恵を国民が等しく、迅速に受けられるようにすることこそ保険制度の目的であるとすれば、保険診療と併せて行われる点数表にない診療行為を混合診療だとして一律に排除しようとする厚生省の指導は『憲法上保障された患者の幸福追求権を無視』したものといわざるを得ない。」(甲11号証26頁)
健康保険法そのものが、自費で行われる保険外医療を含む大きな医療全体の中で、保険の使える医療についてだけ定めた法ということを考慮すれば当然の話で、保険外医療を併用する混合診療が実際上は日常的に広く行われていることはその臨床での需要があるからである。ごく普通の市民の感覚では混合診療を違法として摘発したら、ほとんどの歯科医は捕まるだろうというものである。さらに歯科治療で混合診療が汎用されていても、とくに問題視されていない現実は、他の医療において混合診療が導入されたら、患者の費用負担が不当に増えるとか不当な治療がはびこるといった俗論への解答が示されていると考える。患者は歯科治療で医師から選択肢を示されるが、冷静に判断し、混合診療を選ぶことも、高負担が嫌なら保険治療だけで済ますこともできるのである。

第4 控訴人第1準備書面16ページ「第4 特定療養費制度及び保険外療養費制度の沿革及び趣旨を踏まえた健康保険法の解釈」について
1 「1 昭和59年改正後の健康保険法は混合診療を原則として禁止する趣旨を明確にしたこと」(16頁)について
控訴人は控訴人第1準備書面で、混合診療の禁止は法律の明文規定がないことをはっきりと認めた。(2頁、4頁)しかるに控訴人は、健保法における特定療養費の反対解釈が成立するので、法律の明文規定がなくても混合診療は禁止されているという法解釈は可能だと主張している。しかし被控訴人は、反対解釈論を退け、禁止に法的根拠はなく控訴人の法解釈は誤りだという原判決が合理的と考える。その理由を述べる。     
健康保険法に定める健康保険制度というものは、被控訴人が本陳述書の7ページ以降で述べたとおり、本来自由な診療の中で、保険というシステムに載るものについて定めたものであり、その意味で財政上限定された診療が行われるというものである。 国民福祉と経済性を比較考慮して限定された医療を制度に載せたものであり、自由診療を制限する規定など健康保険法には存在しないし、自由診療を併用することに関する規定もかつてはなかった(既述のように併用は公然たる事実だったし、差額という名の混合診療は汎用されていた)。
 ところが昭和59年に健康保険法の中に特定療養費制度(現・保険外併用療養費制度)という異質なものが入ってきた。これは療養費の支給という形を取り繕っているが、国民皆保険を旨とする健康保険制度のもとで療養の給付を現物で行うという理念からはまったく外れたものである。その内容を見ると、まず特定療養は健康保険法に定める療養の現物給付の中には含まれない。しかし特定療養と保険診療の併用については特定療養費を支給するということで、保険診療には給付を受けたのと同じ効果を持たせている。一方、特定療養以外の保険外診療と保険診療の併用については何も書かれていない。その場合の保険診療は療養の現物給付も療養費の支給もされないとは書かれていない。すなわち健康保険法には特定療養以外の保険外診療の併用については何の規定も存在しないし、もちろん保険受給権剥奪を規定するものもない。
虚心坦懐に読めば、これが健康保険法の実態であり、唯一の合理的な解釈である。しかるに控訴人は、特定療養費制度の反対解釈によって、特定療養以外の保険外診療の併用には自動的に健康保険を一切使えなくなる趣旨を持つと主張する。そしてその趣旨によって混合診療禁止は立法の根拠を持つという。しかし被控訴人は、そのような趣旨解釈で立法を強弁し、国民の重大な権利を奪うことは、違法であり、違憲であって、もはや許されないと主張する。
 平成18年3月の旭川杉尾訴訟における最高裁大法廷の上告審判決文に示された「租税の規定には法律の根拠を要するという原則を厳格に明文化した憲法84条の趣旨は租税と類似した性質を持つ他の公課にも及ぶ」という判断が示された。この判決の意味を考慮すると、租税と同等とみなされ、強制徴収される保険料等の公課についての憲法84条の射程は、当然その対価であり、憲法29条で保障された財産権である給付にも及び、保険受給権の剥奪や制限には法律の根拠を要するという強い拘束力が働くと解釈されるべきである。これは、これまでの行政による恣意的解釈を厳しく退けるものである。そして法律の明文規定によらないで、特定療養費制度の趣旨解釈によって混合診療受診者の保険給付権を剥奪することが強く指弾されるべきことを意味している。
少なくともこの最高裁判決以降は、憲法を厳格に解釈して、国民の重大な権利の制限・剥奪にはまず法律の明文規定がなされるべきであり、行政の恣意的解釈による制限・剥奪の執行は差し控えられるべきである。さらに少なくともこの判決以降は、混合診療による保険受給権剥奪には法の明文規定が不可欠であり、国はまずその立法に努めなければならない。このように司法の最高機関は憲法にうたわれた法治国家の基本原則をこの判決で明確に示したといえる。
行政が立法者意思とか趣旨とか経緯といった抽象的文言を弄して自分に都合の良い解釈をすることは許されない。ましてそれを法的根拠とするなど法解釈を逸脱している。解釈の混乱や横紙破りを退ける意味でも、成文化され、明文化された法律がまず要請されるし、客観的解釈の基礎となるすべてである。
私は法律家ではないが、常識として、反対解釈などという恣意的な要素の大きい概念を権力が重要な法律に乱用することは、民主国家では許されないと考える。例えばある国同士が安全保障同盟を結べば、それ以外の国とは敵対関係とか交戦関係になるという反対解釈が成り立つのか。卑近な例では、痴漢被害を避けるために女性専用車両を設ければ、それ以外の車両では痴漢行為は認めることになるという反対解釈が成り立つのか。法律の反対解釈自体が曖昧で偶然性、恣意性の塊である。だからこそ最高裁は、国民の審判を受けない権力である行政に明確な判決を示し、法律の明文規定に拠らない解釈の乱用禁止を明示したのである。同時に国民の審判を受ける立法府の責任も示唆したのである。
また控訴人は控訴人第1準備書面で、混合診療禁止の法的根拠として療担規則や厚生省告示等を引用している(5~8頁、10~12頁)が、規則や告示等が上位規範を規定したり、解釈することは越権で許されない。上位規範の趣旨を拡張し、法律の委任の趣旨を没却する。法律改正によらない法律改正を可能にしてしまう。とくに控訴人が禁止の重要な法的根拠として度々挙げている療担規則は、控訴人が混合診療禁止の趣旨を確立したとしている昭和59年創設の特定療養費制度よりはるか前の昭和32年に制定されたものであり、その当時の健康保険法には保険外診療やその併用に関する何の規定もなかった。まして「特殊療法の禁止」とか「医療機関の保険指定停止」という当時の法も想定していないような強い規定を官僚の作った規則などという低位規範に潜りこませることは、行政の越権であり、民主主義を破壊するものである。このように療担規則は法からの委任を隠れ蓑に、官僚が法の下位規範であるにもかかわらず上位規範の法の趣旨に重大な改変を加えたものといえる。このような無法な規定に基づいた主張は、法的に許されず、不正義である。

2 同16頁「2 被控訴人の理解は失当であること」について
 控訴人は、控訴人第1準備書面で、特定療養費制度に混合診療禁止の明文規定がないことをもって、被控訴人が、あたかも原則禁止など初めからなかった、混合診療を否定せず、存続させるべきと考えていた、さらに治療の先進性や効果の程度あるいは患者の受診希望の高いものについては特に保険適用対象とすることを示したなどと誤った主張をしていると指摘している。(16~18頁)
しかし虚心坦懐に見ると正にそうなのである。控訴人は、特定療養費制度など創ってそれまで法規定されていなかった混合診療を限定容認したわけだし、それまでの差額診療にもなかった先進医療にまで混合診療を広げたわけである。しかも今まで見てきたように、先進医療の範囲をこの限定容認だけで済まそうとはしていなかった。現行法でも評価療養として混合診療を拡大する制度設計となっている。特定療養費制度の見方は控訴人の解釈だけではない。混合診療を広げていく制度という逆の解釈も可能なのである。特定療養費制度の見方がこのように不安定である以上、控訴人の反対解釈というものが患者の保険受給権を奪うような強い意味を導く論理を持つとは考えにくい。
一方で控訴人は、「特定療養以外にも混合診療を認めたら特定療養費制度創設の実益はない」(控訴人第1準備書面17頁)とも述べ、混合診療を原則禁止するために制度は創設されたと主張している。これは一見もっともらしく聞こえるが、反対解釈を基盤にした一面的な、弱い主張である。特定療養費制度は、被控訴人の本陳述書9頁で述べているように、原則禁止どころか特定の療養を将来、保険に収載するための準備段階の役割をも担っている。そして特定の療養以外の自由診療については保険に収載される可能性はないが、その併用を禁止するとも黙認するとも明文規定せず、いわば法は関知しないという態度をとっているというのが制度の正しい自然な解釈である。
もし、控訴人のいうように特定の療養以外にも混合診療を認めてしまったら、特定療養費制度創設の実益はないというのであれば、立法者は誰が見ても混合診療禁止は真に確定していると認識できるよう、法律の明文規定を掲げたはずである。そのような明文規定もなく、いわば混合診療における保険受給権剥奪を行政執行する法的根拠も不備な状態である以上、特定療養費制度は上記の自然な解釈となるのが当然の帰結である。平成18年3月最高裁の憲法84条についての判断が示された今ではなおさらである。

第5 まとめ 
控訴人は、控訴人第1準備書面で、特定療養費制度創設の趣旨により混合診療は禁じられており、被保険者から保険受給権を剥奪することは法的に根拠を持つと主張している。これに対し、被控訴人は、当時の厚生省保険局長の公式発言(本陳述書10頁)などから、制度創設は蔓延する差額徴収を法制度化して律することを目的とし、さらにそれまで入れてなかった先進医療まで組み入れて、いわば混合診療を拡げていこうとする趣旨を持つものであり、控訴人の解釈は立法者と異なる官僚の後追い自己都合解釈であると逆の主張をする。一方で控訴人は、混合診療を禁じなければわざわざ制度を作った実益はないと述べている。(控訴人第1準備書面17頁)その意味するところは、明文の規定がなくとも、制度は特定療養の併用容認だけでなく非特定療養の併用禁止までを含むと解釈できるということ、すなわち制度の条文の反対解釈で混合診療禁止の趣旨が読めるということをもって、制度創設の実益を確立したといっているのである。たしかに明文の規定がない以上、常に反対解釈を蒸し返して混合診療禁止を主張するほかないのだろうが、この主張は原判決で否定されたものであり、被控訴人も本陳述書において、創設趣旨や反対解釈などという法治国家に反する推定根拠で、健康保険受給権という国民の重大な権利を剥奪することは、違法であり、違憲であると主張するものである。
第1編控訴人第1準備書面への反論と題して、ここまで被控訴人が主張してきた論旨の証拠として、被控訴人は甲12号証を提出する。(甲12号証・嶋貫真人「混合診療禁止原則に関する法的問題点」総合社会福祉研究誌掲載予定論文)
第2編 被控訴人の提起する争点
第1 たとえ法的根拠が認められても、混合診療を原則禁止し、その手段として患者の保険受給権を剥奪する現行制度は憲法25条に違反する。
 がんなどの難病の場合、保険医療だけで症状の悪化をとめたり、改善を見込めないことは多々ある。患者が保険医療機関において、そのような状態になったとき、現在の保険医療制度では、医師はもう手の施しようがなく、患者を医療から放り出すしかない。海外では、有効性や安全性が認められた標準薬や治療が、日本で認められているものに匹敵するくらいまだあり、医薬の適応外処方や免疫治療など試してみる価値があると医師も認める医療が残されているのに、患者は医療の道を断たれ、死を待つしかなくなるのである。
 国民が重い病気や難しい病気の際、命とすがる保険医療機関に、控訴人が認めた医療以外の一切の医療を禁ずるこの制度は、行政がそれを貫徹するために用いている患者の保険受給権の剥奪を伴っている。このような医療禁止措置は国民の自分の命に関する自己決定権、憲法25条で保障された生存権が国家により侵されたといえるものである。難病や重病の患者には、たとえ保険治療が尽きても、延命が図れたりあるいは少しでも症状を改善する可能性のある保険治療以外の他の治療を選択し、受ける権利があるはずである。この権利の行使は他者にまったく加害するわけでもなく、その治療は自費で受けるので健康保険制度を毀損するわけでもない。また治療の安全性や副作用といった通常の急性感染症のような問題は、このような場合、患者の関心外、論外である。治療が尽きて新しい薬の治験を受ける患者と同様、座して死を待つくらいなら少しでも可能性のあるものに賭けたいのである。これは異常な、許されない意思であるか。
 しかし混合診療を禁ずる現行制度では、患者も保険医も保険医療機関も保険医療以外は、療担規則18条の縛りもあり、一切手が出せない。健保法には例外的に混合診療が認められた保険外併用療養制度の評価療養というものはあるが、それを利用しようと厚労省により認められた数少ない医療機関が申請する場合も、その医療技術や医薬の申請の条件はきわめてハードルが高く、審査、治験等に日本では時間やコストが途方もなくかかる上、承認不可もしばしばあることから、一刻を争う難病・重病患者には到底間に合わない。川渕孝一東京医科歯科大学教授も『医療再生は可能か』(筑摩書房2008年4月132頁~136頁)でこう書いている。「売上の世界的上位三割の薬に日本国民がアクセスできない。66カ国中7番目に多い。これがドラッグラグ問題だ。海外にはがんに効く薬があるにもかかわらず、その事実を知らずに死んでいった日本人がどのくらいいるか。遅きに失した厚労省は従前の特定療養費制度を再編して保険外併用療養費制度を導入した。制度中の評価療養では、旧高度先進医療については薬事法の承認を前提とする先進医療に統合された。(清郷注:08年4月この薬事法承認の前提は突然外された。しかし今度は治験の前提という大きな壁がある)現在は先進医療専門家会議が医療技術ごとに有効性・安全性を審査している。ただここに提案できるのは原則としていくつかの学会だけである。そこが『医療技術評価提案書』を提案するというわけで、まさに学会のお墨付きが必要なのである。(清郷注:ここからいくつかの段階を経て保険収載となるが)国の保険収載のスピードは遅く、先進医療で『適』と評価されたものは05年9月12日から08年1月9日までに審議された中で28件しかない。患者が先進医療を求めて海外に脱出するのもこのためである。評価療養における先進医療の提案に不可欠の治験についても、製薬会社が採算の取れない日本の治験に消極的なので、厚労省は医師主導の治験も認めたが、1件数億円の費用がかかり、これまで数件の届出しかない。要するに、制度の表紙は変わっても中身は以前と同じ白紙状態である。」
 難病・重病患者をムザムザと死に追いやるこのような状態は、国家によって国民の生命、生存権が脅かされているということであり、国家が国民の生命を守るという基本目的を放棄しているとさえいえる。これは明らかに憲法25条に保障された国民が生存するために不可欠の医療の選択と自己決定の権利すなわち生存権を侵害するものである。
 混合診療を原則禁止する現行制度が憲法25条に抵触するもう一つの側面がある。それは、健康保険被保険者である患者の保険診療を受ける権利、機会を奪ってしまうことである。制度が難病・重病患者の治療選択、自己決定の道を閉ざしているのみならず、保険診療と特定療養以外の診療を患者が受けた瞬間、その患者が最も基本的と頼る保険診療を受ける当然ともいえる権利を簡単に自動的に抹消してしまうのである。このような非人道的な行政が民主的な国民国家で許されることだろうか。
 川渕教授も「保険給付の範囲を少しでも超える診療を受けたら、医療費が全額自己負担になるのは、健康保険制度がその役割を自ら放棄することになる。高度先進医療や治験薬など客観的、科学的な治療の恩恵を国民が等しく、迅速に受けられるようにすることが保険制度の目的である。それらを混合診療として保険停止までして排除する国の指導は憲法上保障された患者の生存権を無視している。」(甲11号証26頁)と述べている。
私の場合も手術不可のがん転移で、当時残されていたわずかな治療は1カ月の放射線治療(この治療は生涯一度きりで、同じ所に二度とできない)の後は、インターフェロンとLAK治療くらいしかなかった。他のがんにはある抗がん剤は一切効かないといわれた。以前は先進医療に認められていたそのLAK治療は副作用等の危険性もなく、私の場合は有効性も十分考慮されうる病状経過をたどっていた。認可取り消しを決めた先進医療専門家会議でも危険性は指摘されず一般的な有効性が疑われる程度の治療だが、この治療を採用しただけで一切の保険受給権を奪われるのはあまりに理不尽である。民間療法などと違ってがん専門病院の保険医が薦める治療を受けたというだけで、病院は保険指定停止の処分を受け、患者には莫大な経済的負担がのしかかるということは、このLAK治療をやめろといわれるに等しい。実際、この医療制度のおかげで神奈川県立がんセンターはLAK中止に追い込まれたのであり、当然どこの保険医療機関もLAK治療を受けさせてくれない。これでは保険治療と特定療養だけでは効果のない私のような患者は、国から手を拱いて死ねといわれているようなものである。
 先進医療専門家会議など医療の保険収載を審議する機関が、あらゆる医療の有効性や安全性をすべて検証しているわけではない。認められていないあるいは検証されていない医療の中にも患者にとって良い医療があるかもしれない。患者も病気も千差万別であるならなおさらである。だから保険の利く医療は最大公約数に抑えられ、その枠をはみ出す最小公倍数の医療は自費で行うということに患者は納得する。しかし、真ん中の核になっている保険医療まで全額自費になり、保険受給権が全滅するというのは、生存権の侵害以外の何者でもない。
最近の中立的な世論調査では、8割の国民が難病に対する混合診療に賛成の意思を示している。(平成20年4月日本医療政策機構発表、甲第10号証の1)これは難病患者の生存権、すなわち患者の求める医療選択とその自己決定権に大多数の国民が理解を示したことを表している。このような国民意識を無視して現行制度を固持することは、民主主義の理念にも反するといえる。
国民意識に関しては、もう一つ重要な指摘がある。川渕孝一東京医科歯科大学教授の『医療再生は可能か』(筑摩書房2008年4月65頁~68頁)によれば、2006年6月14日通常国会で医療制度改革関連法が成立した。その内容は大きく三段階で実施されるもので、最初に06年10月から保険外併用療養費や療養病床の食費・居住費の自己負担化が導入された。この国会提出後わずか4カ月、無修正で可決・成立したこの法律が果たして国民の総意だったのかというと、答えは「NO」である。その証拠に07年7月29日の参議院議員選挙で、与党は惨敗した。その象徴的な出来事が医療関係団体から推薦を受けた候補者が軒並み落選したことである。日本医師連盟推薦の武見敬三厚生労働副大臣、日本看護連盟推薦の松原まなみ氏、日本薬剤師連盟推薦の藤井基之氏など。―被控訴人は、選挙が民意の反映であり、民主主義の基本であることから、3候補の落選は、国民が国の医療政策、医療改革に明確に不信、不支持の意思を表したものと考える。この医療制度改革関連法は、「医療保険の持続可能性」の確保と「患者本位の医療」の確立という二大目標を掲げていた。しかし医療・介護を含めた改革関連法の内容で、前者の新たな負担と給付をめぐる制度の設計と後者の患者への医療供給側の制度改革に対し、国民は不信を突きつけ、納得しなかったのである。

第2 たとえ法的根拠が認められても、混合診療禁止を行政執行するために患者の保険受給権を奪うことは憲法14条に違反する。
平成20年6月に国籍法の規定は違憲であるとする最高裁大法廷の判決が示された。そしてその根拠に、父母の婚姻を取得の条件とする国籍法の規定が憲法14条の法の下の平等に違反しているという点が指摘された。国籍という日本で暮らす国民の権利と義務を決定する最も基本的な要件に対し、軽々とその価値を毀損する行為は許されないとする司法の最高判断である。
国民皆保険制度のもと保険料を税金と同じように強制徴収されていることは医療において被保険者は国籍法における国民と同様の地位にあるとみなされる。保険外の治療を一つ受けただけで患者がその治療のすべての保険受給の権利を失うということは、たとえば一つの罪を犯した(保険外治療は犯罪ではないが)だけで国民が国籍を失うことに等しい。これは健康保険法という法の下での平等を侵害するものである。すなわち混合診療において患者の保険受給権を何の対価もなくすべて剥奪するという国の行政執行は明確な憲法違反である。
 強制徴収された保険料の対価としての保険受給給付権をたった一つの保険外医療を受けただけですべて剥奪される被保険者は、保険医療と特定療養のみを受けてすべての保険受給権を付与される被保険者に比して、あまりに不平等である。剥奪される被保険者は保険料の納付という義務を果たしているにもかかわらず、生きていく上で不可欠で平等であるべき権利を奪われており、保険診療と保険外併用療養を受けて保険給付を受ける被保険者とはあまりにも異なる差別的扱いであって、憲法14条を侵害する扱いを受けているというべきである。
 そもそも社会保障の負担に対する給付については最も慎重に扱われるべきで、たとえば年金は富裕な受給者に対しても、それまで支払った保険料の対価という社会保障原則から減額も停止も行われないし、今後その調整が行われる場合でも、法律の明文規定に依るであろうし、その立法に際しても憲法に触れないよう慎重に行われるであろう。

第3 たとえ法的根拠が認められても、混合診療禁止を行政執行するために患者の保険受給権を奪うことは憲法29条に違反する。
「健康保険の被保険者には、税金と同じように強制徴収された保険料の対価として、医療費の保険給付分を受給する権利がある。一方、特定療養費(現・保険外併用療養費)として定められたもの以外の医療は自由診療だが、これには保険診療のような療養費に関する規定はなく、医療機関と患者の私法上の契約と見なすことができる。しかし現行制度で、そのような私法上の契約をした瞬間に、被保険者が保険給付を受ける権利、医療機関は保険負担分を請求する権利を失うなら、その旨の明文の規定が必要だが、特定療養費の規定だけで、そのような重大な権利の剥奪を規定しているとはとてもいえない。」(阿部泰隆中央大教授『対行政の企業法務戦略』224頁中央経済社)
仮に百歩譲って、混合診療禁止に法的根拠があったとしても、混合診療を受けたというだけで国民の強制的に徴収された健康保険料の対価としての保険受給権を奪うことは、憲法29条で保障されている国民の財産権の侵害である。健保法の立法者はこのことを認識して、立法に明記することを避けたが、行政が恣意的に解釈し、独断専横的に執行してきたのが健保法における混合診療禁止の歴史である。
憲法29条が存在する以上、保険外診療を自費で受けた瞬間に、誰に迷惑をかけるわけでもないのに、保険料の対価としての保険診療への保険受給権を奪うことはできない。なぜなら保険受給権は社会福祉手当のような立法政策に大幅に依存する権利ではなく、国民皆保険制度のもと強制徴収された保険料の対価という財産権だからである。   
「これを剥奪することは国家による正当な保険請求権の侵害であり、この財産権の保障を実質的に確保できるよう特定療養費制度をきわめて限定的に解釈する以外に法的に正当な帰結はない。」(甲2号証8頁)しかし、現在の行政執行が示しているように、このような重大な権利を保険料も滞納していないのに合理的な理由もなく剥奪する国家はとても法治国家とはいえない。

第4 混合診療を禁止する制度運用の手段として保険受給権を剥奪することは、不法であり、憲法84条の精神も侵しており、許されない。
 控訴人の控訴人第1準備書面では、控訴人が法律用語ではないといっている混合診療という言葉が多用されている。「混合診療は禁止されている」というように。しかし健康保険法のどこを読んでも、また控訴人が禁止の趣旨を持つと主張する特定療養費制度について記した条文を見ても、さらに主張の補強に援用している療担規則の中にも、混合診療という言葉はない。当然「混合診療の禁止」という規定も法律の中にまったくない。それなのに混合診療の禁止は法的根拠を持つといえるのだろうか。それは法律の合理的解釈といえるのだろうか。このような疑問がまず浮かぶのであるが、それを措いて論を進める。
混合診療禁止の立法趣旨を持ち、その法解釈を可能にしたと控訴人の主張する特定療養費制度だが、そこには特定の療養には保険診療との併用に際して費用を支給するとはあるものの他の保険外診療の併用には一切の保険受給権を奪うとはどこにも書かれていない。またそのような幻の規定を根拠に受給権剥奪を解釈することは法解釈を逸脱している。
百歩譲って特定療養費制度の無理やり反対解釈が通った場合は、特定の療養以外の保険外診療併用に対して一切の保険給付を停止でき、混合診療の実質禁止の趣旨を導くことができる。その場合、混合診療を受けた患者への保険受給権剥奪の根拠に、今までの準備書面で控訴人が主張してきた医療の不可分一体論、広井元厚生省保険局医療課長が保険局公認事項という「一連の診療行為の法理」があることは明白である。控訴人は控訴人第1準備書面でも「混合診療のうち保険診療相当部分なるものが観念できないというのが一審被告らの立場である」(3頁)と述べているが、混合診療の場合、保険外診療部分のみならず保険診療の基礎的診療部分にも保険外診療の影響が入り込むことから、これらの医療は一体とみなされ、すべて保険外診療となるというのが、控訴人の当初からの主張である。混合診療の診療報酬の算定もそのような観点から算定不可能としている。しかし原審はこれを退けた。健保法においては保険診療と保険外診療の併用は不可分一体にはならず、診療報酬も個別の診療ごとに定められている、もし不可分一体ならその一体の治療について診療報酬の算定基準がないのは不合理であるとしたのである。実際、控訴人は算定不可能といいながら、特定療養費においては、保険診療部分と保険外診療部分を明確に可分とし、診療報酬も個別に算定している。
 そのように不可分一体論は虚構の論理であり、偽りの立論なのであって、それに基づいて保険受給権を剥奪することは誤っている。従って百歩譲っても特定療養費制度を無理やり反対解釈することは根拠が不当であり、違法な解釈といえる。このように混合診療禁止は確たる立法根拠のない法解釈であるが、その上にその手段として保険受給権剥奪を駆使することは、でたらめで恣意的な行政権の乱用であり、許されない。
仮に控訴人が、本当に患者の医療の安全性と有効性を担保するために混合診療を禁止しなければならぬのなら、保険医療機関と保険医に対して自由診療併用への規制を徹底すればよいのであって、弱い患者の保険受給権を一切奪うなどという非人道的な手段を使うべきではない。この手段は、混合診療禁止という政策目的貫徹のために、控訴人が確立した国民皆保険制度を自ら崩壊させるものといえる。
一方、控訴人は自由診療を野放し状態にしているが、難病患者は追い詰められたら勝手に他の医療機関での自由診療にも走る。そしてこの場合も控訴人の解釈では混合診療(実は控訴人は混合診療の定義、保険外診療併用の定義を問われても明らかにしない。定義もなく、法律を運用するなど法治国家では想像もできないが、このケースは混合診療になると法廷で明言した)に当たり、保険診療部分の保険受給権は初診にさかのぼって剥奪される。すなわち保険医療機関は保険給付分を返還し、患者はその莫大な返還分を負担しなければならなくなる。もしそれほどに患者の医療の安全性や有効性を思うなら、控訴人が危険と断じる自由診療を一切禁じなければ筋が通らないが、そのようなことが合理的で可能であろうか。
以上の通り、保険受給権剥奪という行政行為は違法である上に、かくも不合理で非人道的なのである。保険医療が功を奏さず弱っていく難病・重病患者にとって、この行政手段がいかに無法で無慈悲で民主主義に反するものか。たとえば訪問販売は悪質な商法が多く、甚大な被害者が後を絶たないが、それが禁止されることはなく、一律禁止の法律も作ることはできないと思われる。国民の基本的な自由権(営業の自由)を奪うからであり、訪問販売には外出できない消費者にはメリットがあるからである。被害を防ぐには一律禁止ではなく、適切な法整備と当局の厳格な運用、取り締まりによるのが正しい行政なのである。
以上の通り、また被控訴人が本陳述書の第1編で反論した通り、混合診療を禁止する行政の手段として、患者の保険受給権を奪うことは、明文規定された法律に基づかず、官僚の不合理で恣意的な趣旨解釈により違法に執行されている。さらにそれは患者の3つの基本的人権を侵しているだけでなく、租税やそれと同等の公課の徴収には法律の明文規定を要するという憲法84条の趣旨は、当然公課負担の対価である給付にも及ぶことを考慮すれば、憲法84条の精神にも違反しているといえる。

第3編 結語
 以上、控訴人の主張は、不合理で誤っており、違憲であるので、裁判所は速やかに控訴を棄却されることを求める。